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月岡草飛の謎 俳人月岡先生による俳句作りの臨場感や先生の鬱的な非日常の活躍を楽しめます ~芥川賞作家 松浦寿輝著~

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この本を読んで、記憶のためのあらすじと感想を残しています。じっくり読みたい方は本をお読みになってからご覧ください。この本に限っては、あらすじ以外のところが面白い感じではあります。

俳人の月岡草飛先生が、いろいろな人と関わり合い、その時々に感じたことを俳句に読んでいく。 全部で、約四十の句に加え、十二句の連句が一つかな。

これらの句をどうしてこう詠んだのか、こうする案もあるか、などと解説というよりは月岡先生の思考という形で表現されていて、俳句作りの参考になりそうな気もするが、素人の私にはそこまでの確証はない。

物語は、いろいろドタバタして展開していき、月岡先生の態度、ふるまい、考え方などが面白く、どんどん読まされてしまうという感じ。

あとで、著者の松浦寿輝(まつうらひさき)氏を調べてみれば、2000年に芥川賞を受賞されており、それまでも96年に三島由紀夫賞、そのあとには、09年に荻原朔太郎賞、17年に谷崎潤一郎賞、それ以外も数々の受賞をされ、詩人、小説家、東大名誉教授!!!

目次:

1.ラジオ放送局の謎 あるいはなぜ押し入れの中はこれほど安らぐのか

P7-30
この書評のまえがきには書いてしまったが、最初読み始めた私には、この本は、いったいどういう種類の本であるかが、よく分からなかったのであるが、読み進めていくうちに、ぼんやりと見えてくるのである。

とりあえず、最初に登場する槿(むくげ)という植物が気になるので調べてみる。
(NHK出版 みんなの趣味の園芸 から引用)
学名:Hibiscus syriacus
和名:ムクゲ
科名 / 属名:アオイ科 / フヨウ属(ヒビスクス、ハイビスカス属)
“暑さで人や植物が元気のなくなる季節に、次々と大きな花を咲かせるムクゲは、盛夏を彩る代表的な花木といえます。種小名の「syriacus」は「シリアの」という意味ですが、中国の原産です。韓国の国花としても知られています。日本には平安時代以前に渡来し、古くから庭木や生け垣として栽培されてきました。ハイビスカスなどと同じフヨウ属ですが、フヨウ属のなかでは寒さに強いため、日本だけでなく欧米でも夏咲きの花木として親しまれています。
どこの庭でも植えられているように栽培は容易です。一般に栽培される赤紫色のムクゲ以外にも、さまざまな花形や花色の園芸品種があります。”

パラパラとページをめくると、どの章にも俳句が出てくるようだ。俳句の本なのか。
最初の句がこれ。

『片おもひ咲かぬむくげぞおもしろき 草飛』

どんどん出てくるので、もういちいち書かないが。

この草飛とういうお方は、偉い俳人の先生で、広いお屋敷に住み、いつの間にか知らない人が家に上がっていたりするのである。
家内が、とか言っているので、結婚して奥さんはいるようだ。

どうやら、その知らない女は、ラジオ局の人らしく、先生は来月からラジオに出るようだ。先生はこの女をドーブラエ女史と呼ぶことにした。

後日、ラジオ局から車でお迎えが来るが、先生はこの仕事やラジオ局の詳細は分かってないふうで、ストーリーは進んでいく。

その、分かってない先生がひとり想像力を働かせながらラジオの仕事をこなしていくところの様子が面白いといった仕立てのようだ。ちょっと被害妄想的なところも面白い。

ん~、これからもっと面白くなるかなと思って読み進めると、ロシア文学の先生の家に連れて行かれるのだが、なぜか月岡先生は、その家の押し入れに入り込み(ボケてるのかなと思いつつ)、落ち着いてしまい、下ネタ妄想するのだ。

え、これで終わりですか。。。
よくわからないなあ。
しかたがないので、次の章も読んでみようと考えた。この時点でわたしはまだ、この書評のまえがきに書いたような本だとは、分かっていなかったのである。

2.LAワークショップの怪 あるいは無人電車に勤務する車掌はなぜ軍刀を佩用しているのか

P31-58

(下名注釈) 佩用:はいよう 刀や勲章などを、身に着けること。着用すること。

さて、物語は始まる。
朝の5時半に電話が鳴るが、死んだはずの家内は出てくれないので自分で出る。
相手は、ロサンゼルスの木下という男だ。だれ?
ドーブラエ女史は、先生の頭の中で改名されて、グラスホッパー女史となる。ちゃんと名前で憶えないのか!と思ったりしたものの。。。

木下の勘違いなのか、月岡の呑気でややプライドの高い性格のせいなのか、困難な状況もうまいこと乗り切って行くのであった。

ロサンゼルスの木下という男から、電話で「月丘先生」と呼ばれても、人違いとは分からない。講演依頼の内容がよく分からないのに引き受けてしまい、アメリカへ行ってさえも、グラスホッパー女史と平然と困難をやり過ごして?いくのだから、月岡先生は大したものだ。

そして、やはりそうだったかという抗議の知らせが来た。全日本水石愛好会 月丘惣治名誉会長からだった。それをさらりと受け流すさまもなかなかよろしい。

なぜか、いつの間にか月岡先生は、電車に乗っており、乗務員は戦前の日本陸軍の軍服軍帽姿で、腰には軍刀まで佩用(はいよう)していることになっており、電車はいつまで経っても駅には着かないのであった・・・。徘徊?

3.ポリンスキー監督の謎 あるいは『ミッション:インポッシブル/ローグ・ネイション』のあれをトム・クルーズはいったいどうやってやってのけたのか

59-96

月岡魔羅、これは月岡先生の放蕩息子のようだが、そのことにも思考が飛ぶが凡人の私にはよく分からず、こんなくだりは無くてもいいのではと思ってしまう。

さて、駅前商店街の牛丼屋で遭遇したのは、映画監督のポランスキー。ロサンゼルスでの石水の講演に行ったときに、飛行機で話した仲だというが、話しかけたポランスキーの態度から、なんかあやしいなと思い始めた。

この章のタイトルには、ポリンスキーと書いてあるのに、ポランスキーって、もうすでに間違っているのではないかという気がしてきた。

草飛先生は、ポランスキーと思しきその御仁の肩を抱きかかえて、カフェに連れて行くのである。

そうすると、やはりポランスキーと思しき男は、「ノー、ポランスキー」と言うのだが、草飛先生に通じるはずもなく。。。男が「私はポランスキーではないよ」と言っている問題は草飛先生の中で自己解決されて物語は進んで行く。もうポランスキーでいいか。

ポランスキー監督と月岡先生が思い込んでいる男は、月岡先生に何度もカフェに呼び出されて、彼の作品を月岡先生は褒めるのだがどうもピンと来ていなかったが、なぜかトムクルーズ主演の「ミッション:インポッシブル/ロング・ネイション」の話をしたとたん、食いついてきた。

話が変な方向に進んで、月岡先生は、「ミッション:インポッシブル/ロング・ネイション」でのトム・クルーズと同じアクションを撮影することになる。貧乏人の創造を遥かに越えるZOZO的な展開である。

そして、なぜか先生は死なずに、そのシーンを撮り終えた、らしい?
どこまでが、夢か現実か、ボケているのか性格がいいのか、よく分からないのである。

4.二羽の鶴の怪 あるいはなぜ歌仙「夕東風の巻」はたった十二句で途絶しなければならなかったのか

P97-130
夕東風(ゆふごち)・・・夕方に吹く東風、春の季語

イタリア人のマルコ(雅号は円子):休暇中の昆虫学者とでもいった風体の小柄で丸顔の中年男で、剥げていて、鼻の下に口ひげがある。顎や頬にはひげが無い。

フランソワなにがし(雅号は古沢):二十代とおぼしい、がたいの良い西洋人の青年で、長く伸ばした金髪を後ろでちょんまげに結い、角ばった顎をきれいに剃り上げている堅苦しいやつ。

ナターリア(雅号は名取):二十歳過ぎの女性、柔らかくウェーブした黒髪を肩まで伸ばしており、少々高すぎる鷲鼻がやや気になる色白の西洋人。

空港のラウンジにある小さな和室で、縁側と庭があり、ここで連句の会が開かれていたのである。

連句とは、

一般社団法人 日本連句協会のホームページによれば、
「連句とは、最初の句に対して、その情景から次の句を想像する文芸です。
それは幼い頃の尻取り遊びのように、出来るだけ素早く応じて、前の句とは関連があるが、しかも全く違う内容の句がよいのです。そして、何人かで、長句と短句を交互に繰り返します。この問答風の文芸は、六百年も前から伝わってくるうちに、いくつかの約束事(式目)ができました。形式も三十種類ほどあります。連句の楽しみの大部分をなすのは、連想飛躍によって思いもかけない別世界が繰り広げられることです。
芭蕉も「俳諧は三十六歩の歩みなり、一歩もしりぞくこと無し」と述べていますが、歌仙三十六句を足 取りにたとえ、後へ戻ることなく前と同じ情景を避けて、新しい局面を展くように前進しなさいと教えています。」

草飛先生によれば、フランソワ君は眼高手低のやからとのこと。どういう意味か。また調べないと。。。
ネットによれば、「目は肥えているが、実際の技能や能力は低いこと。知識はあり、あれこれ批評するが、実際にはそれをこなす能力がないこと。また、理想は高いものの実力が伴わないこと。 「眼高く手低し」と訓読する。」とある。
知識は増えてありがたいが、私が日常で使うこともなかろうから、すぐに忘れてしまうだろう。

月岡先生は、ワインを飲み過ぎたのか、ボケてきたの分からぬまま、連句は十二で止まったようだ。
なんとなく、結構自由な連句の作法が分かったような気になった章であったが、この章の物語の最後は夢か幻かさえも私には分からなくなった。

5.穴と滑り棒の謎 あるいは老俳人はいかにしてマセラティ・グランカブリオを手に入れたのか

P131-168
月岡先生は、イタリアのジェノヴァの町から車で40分ほどの、リグリア海を一眸(いちぼう)に収める僻村に居るらしい。

海に臨むテラスで、碧い海を見ながら、帆布製のデッキチェアでゆったりと読書をし、日が落ちてくると、女中が食前酒を聞いてくるといった、妄想ではないかと思わせるような羨ましい設定なのである。

主人のマルコと他の客の十人ほどで食事をするらしい。

俳友のナターリアも来ていて、月岡先生の部屋に度々お話に訪れることを、マルコは快く思ってないのではないかと先生は心配している。

そうして、心地よい日々を過ごす合間に、月岡先生はマルコの部屋にときどき呼ばれるのであった。その部屋の中央には、消防署にあるようなポール(滑り棒)が天井から床下へ突き抜けており、床下へ続く漆黒の穴があるのである。月岡先生はその穴がとても気になるのに、マルコはそんなことはどうでもいいから話をしましょうといって教えてくれないのである。

そして、滞在の三週目に異変が起こった。美味しかった食前酒や料理がまずい。優しかったはずの、女中・マルコ・ナターリアから次々に罵倒されて、ついに漆黒の穴へ堕ちてゆく。(ちょっと端折りすぎたかな)

目が覚めた月岡先生に突きつけられた現実は。。。
マルコから渡された名刺には、「円子クリニック院長 円子亮造」
マルコ・リオッツオではないのか。。。マルコ:円子、リオッツオ:亮造!
院長は言う、「ここは、療養所、裕福な方々限定のサナトリウムですよ。」

ここで、また一句、草飛先生は詠まれた。

『さうなりけりさうなりけりとうつし世に棲む 草飛』(解説省略、本をお読み下さい)

6.途中の茶店の怪 あるいは秋の川辺の葦原になぜいきなり断崖が現出するのか

P169-194

月岡先生は、どうもお疲れのようである。
子どもの頃に来た川べりに居たかと思うと、どんどん川へはいって行く。
うつ病の治りかけが、一番自死が多いのだと考えているようだから、大丈夫だと思うが。

土手に戻って、はるか遠方に見える茶店のようなあばら家を目指して歩き始めた。

茶店に到着した月岡先生はかなり疲れていて、みつ豆を注文した。食べ終えて、主人の姿が見えないので、お金を置いて店を出るが、もと居た場所までは遠く、タクシーを呼んでもらおうと茶店へ戻ったものの、電話は無いと言われ、困り果ててしまう。

そのうち、店の主人は、それなら店の跡を継いでくれと言って、奥へ行ってしまう。
それもまたいいかと、呑気なことを考えていた月岡先生がふと足元を見ると、そこは断崖絶壁であったという、またしても突拍子もない情景が映し出され、死んだはずの母を見舞いに行った記憶とも混乱している様子であった。

7.人類存続研究所の謎 あるいは動物への生成変化によってホモ・サピエンスははたして幸福になれるのか

P195-232
月岡先生は、今日やることを朝食後にゆっくりと考えられるいいご身分の様子である。また、ナターリアが登場する。家事を取り仕切っていた木下がいつの間にか姿を消し、この美しいウクライナ娘が同居している、とはまた都合のいい設定である。

先生の精神は軽躁状態ということだから、しかたがないだろう。ほんとうにナターリアは存在しているのかと勘ぐってしまう。

今日の予定は、午後二時に犬セラピー、それから人類存続研究所の見学ですとナターリアは言う。やはり先生は病んでいるらしいが、研究所の見学とはどういうことでそのような予定が組まれるのかまったく分からない。

さて、その犬セラピーだが、犬によるセラピーではなくて、自分が好みの犬になって女性にじゃれつくという、どうも〇態チックなものであり、その描写はここでは語れない。

それから先生は、人類存続研究所の見学へと行くが、これがとんでもないワンダーランド、いやお化け屋敷か!?

人類存続の研究が、人類を破壊するような研究になっているのではないか。
人類が放射能とも共存するために、動物への生成変化をするという考えはありかも知れないが、それがあの昆虫とはあり得ない。なんと、我が天敵の〇キブリ (;^ω^)

月岡先生は、巨大化した〇キブリから必死で逃げ帰った。
そして、忌まわしい体験を忘れようと、美しいものに思いを馳せているうちに、死んだ父が縁日の日に若い女を連れているところにばったり出くわしたことなどを思い出しつつ、一句詠む。これに説明や修正がなされる。

先生は、眠気の中で貪欲まみれのエ〇いことを思い浮かべながら眠ってしまうのであった。

8.祝賀パーティの怪 あるいは言語の混乱に作者はどこまで責任をとるべきなのか

P233-258

ここは、とあるホテルの宴会場のある階上。
月岡先生も招かれたらしいが、会場はどれだろう?

・星よしこさん**賞受賞祝賀パーティ
・**大学大学院数理物質科学専攻・則包奉斎教授定年退官記念パーティー
・無所属無党派都議・道垣内良一君を励ます会
・**大学**学部卒業記念謝恩会
・**さんを送る会

車で来たはずの先生だが、グラスで酒を飲みながら、呼ばれてもいない会場で祝辞や弔辞を話し始めてしまう。

誰も止めないのは、誰一人祝辞や弔辞なんて聞いていないということかな。

話している途中で垂れ幕を見て、会場を間違えたことに気づきながらうまくまとめては、また別の会場で祝辞や弔辞を述べていく。終わらないなあ。これが混乱しているということかな。

どうやら、月岡先生だけでなく、大学の先生や政治家の先生も、いろんな会場で自分のことを述べつつ、垂れ幕を見て違う会場だと気付きつつ、いやこちらは自分を宣伝する確信犯かも、その垂れ幕に応じて臨機応変に挨拶をしていくのだが、その手腕には、むしろ感心させられてしまう。
みなさん、こんな事ばかりしていらっしゃるのでしょうかね。

え~、・・・このマイク、入ってる? 混乱は終わらない。

9.花見の宴の謎 あるいは人生は面白いという命題からいかにしてアイロニーを払拭するか

P259-296

立川から青梅線に乗った月岡先生は、四十分ほど行ったところにある小さな駅で、一度だけ会ったことのあるロサンゼルスにある日本文化フォーラムの元館長に遭遇する。行先は、月岡先生と同じ「花見の宴」のようだ。

彼は、アメリカ大使館の文化交流部の部長として、先日家族三人で赴任してきたところらしい。妻と娘も帯同だ。

先生と元館長らがいっしょに宴会場所に到着して、花見の宴は始まる。1章から8章までに登場していた人々が、それぞれ集まって飲んでいる。木下が幹事のようだ。先生はそれらのグループを回りながら楽しんでゆくという趣向だ。

まあ、あまりよく覚えていない人もいたりするが、先生も疲れて川べりで一服しながらマルコに言う。「人生は面白い。なんて吞気なことを言うと冷笑されるかねぇ」
マルコが返す。「人生が面白いってのはイタリア人にとってはただの常識ですよ。」

マルコは、三段階説を説明する。

第一段階.子どもの頃から思春期、青春期あたりまでは、人生は面白いと素直に信じている。

第二段階.それから、アイロニーの毒に冒される時期が来る。(面白いとは思えないようないろんなことが起こる。)

第三段階.それを突き抜けると、その毒への免疫が身につく時期が訪れる。(ユーモアがアイロニーに勝つ。)

話しているうちに、先生はこの句を思い出していた。
「漁火の むかしの光 ほの見えて あしやの里に 飛ぶ蛍かな」 藤原良経

「ユーモアがアイロニーに勝つ」というのは、どういうことだろうか? そのまま日本語に置き換えると、
「人を和ませるようなおかしみ・面白さが、皮肉・風刺の毒に勝つ」 ん~?
人間が成熟するということか、深く考えずに人生楽しもうってことで。。。

先生は、これ以上考えるのをやめて、夜の街に向かって歩き出すのであった。

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