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詩と哲学のあいだ 三好由紀彦 晃洋書房 2022.6.5初版発行

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(あとがきから)

哲学は自由で詩のようだ。
哲学は最終的には死というものと対峙しなければならない。
そのとき、宗教とも相まみえる。
詩とは、ときに死であるから、「詩と哲学のあいだ」は「死と哲学のあいだ」でもある。

なにを言いたいのか(はじめにから)

なぜ、われわれは、このような「存在構造」なのだろうか?
この「存在構造」を規定している「何者か」を解き明かしたい。

では、わたし”まるひろ”が理解(頭に残ったと言った方がいいかも)したほんの一部を紹介して、さいごに感想でまとめてみようと思います。

まなざし

生まれつき視力の無い人に、「見る」を説明するのは、難しい。
たとえば、生まれつき視力の無い人に、そうでない人が、見れば形を触らずに理解できること、とか、色の説明ができない。
なぜなら、この世の規定は、見えることが前提になっているからである、というのは確かにそんな気がする。


視床下部を刺激したパルス(光)が、見るという感覚の一因であることは分かるが、「パルスがなぜ見るという感覚になるのか」は、永遠に分からないから、科学は永遠にこれを説明できないのである。
見えることが前提になっていることにお気づきであろうか。そして、なぜ見えるかは説明できないのである。

カタツムリ

犬は、人間ほどの色を認識していないというのは、人間を基準とした見方であって、犬の方が多くのものが見えているかも知れないことは、否定できない。

水平線

「科学による宇宙像とは、とりあえずこの地球上の望遠鏡などによって収集されたデータを、不都合がないように構成された「人間にとって」の一つの宇宙像にしかすぎない。」という。
われわれの科学が解明したと思っていた宇宙像でさえも、完全なものではない、というか、人間という制約の中で見つけ出したものに過ぎないと言ってみせるのである。

そして、人類の能力の限界が、宇宙のビッグバンだという。たしかに、その前はどうだったのか?という質問には答える気がないように思われる。

言葉

こころのなかでのつぶやきは、他人には聞こえ無い。この言葉が意識をもたらした。
意識とは、いわば言葉による「経験の反芻」である。
意識は、言葉の副産物である。
一方、人は無意識に行動することがあり、それは経験となっていないから、憶えてもいないので、自分にとってその行動は無かったことになるという。
これはよくあることで、わたしもシャワーしながら考え事をしていると、今シャンプーしたのかどうか、分からなくなることがよくある。
脳生理学も脳活動と意識の関係や仕組みを明らかに出来ても、意識そのものを解明することはできない。なぜなら、その観察や分析を行っているのは、意識そのものだからです。無限ループだ。
これは、第一章で語られていた「見ること」を説明できない話と同様です。
著者はこの前提を「既に与えられた何ものか」と表現しています。

エポケー

「既に与えられた何ものか」を解明する鍵は「死」である。
私たちは視覚のない男性と対話することによって、逆に視覚がいかなるものか、その本質を知ることができる。
たとえば、それは「右腕」でも可能である。
だが、誰一人体験したことのない「死」は、死の当事者である死者本人も経験できない。なぜなら、死の瞬間に、死をいっさい認識できないまま死んでいくからです。
「既に与えられた何ものか」とは、この死の一歩手前、すなわち「生きている」ことになる、と著者は言います。
読者の私としては、そのこたえもしっくりこないように思えますが、ここではひとつの意見として、読み進めます。

渦巻き

「既に与えられた何ものか」は、「生きている」ことです。だが、その「生きている」の定義はできません。という。
では、問題は何も解決していないのではないか?
「生きている」の定義はできないが、あくまでも経験的・蓋然的に定義できる、という。
事例として「幻影肢」を上げています。また、生の定義づけの重要な要素として、意味の場としての「開かれた系」だとも。
この場合の例として、「部屋の奥にあるテーブルを見る」という行為で説明されています。
科学で説明すると、まるでロボットが見ているような説明になってしまいます。センサが光を感知して・・・とか。
人間の場合は、そうではなく、そのテーブルを眼球や脳内で見ていると考えるのではなく、テーブルを自己の身体の延長として「生きている」のだと考えるべきである。と。

その開かれた系は、海上に現れた無数の渦のようで、家族、社会、国家、民族と広がっている。私の生と世界とは、隔絶した別個の存在ではなく、私の生とともに互いを生き、有機的につながれた全体としてそこに存在している。
この世界は、渦巻きや螺旋をかたどるものに溢れている。DNA、七五三縄、台風やハリケーン、渦潮、銀河系など。

もし、無としての死が、あくまでもひとつの仮説だとすれば、もうひとつ別の仮説も成り立つのではないか。つまり、死後も私たちの感覚や経験は死後もまだ存在しているのではないか。死を経験できない私たちは、これを完全に否定できないのです。
そして、この「死後も意識は存在して、何者かを経験している」という仮説をもとに作り上げられたのが「宗教」である。と。

遺跡

世界には、いたるところに寺院、教会、墳墓があり、世界遺産となり観光名所となっている。膨大なエネルギーを費やして、人類はこのようなものを作り続けてきた。科学が発達したいまでは過去の人たちの無知がつくり上げた幻影、遺物であると思われているが、果たしてそうだろうか。
たとえその他者の脳が粉々に破壊されたとしても、意識は残り、何かを感じ、経験しているかもしれない。この最後の疑念を完全に消し去ることはできません。だからこそ、さまざまな宗教における霊魂の存在や死後の世界という説教を、迷信であると完全に否定し去ることができない。

宗教は、死における不可知を踏み越えて、死後にも経験が存在するという仮定に「賭けた」のです。知の臨界点に達したとき、そこに踏みとどまったのが哲学で、その限界を超えて飛躍しようとしたのが宗教だという。

パスカルは宗教を、信仰の「賭け」であると見透かしていた。実際は、宗教の教義が正しいかどうかは、生きている限り分からないから。
真理をきわめて理知的に追い求めたデカルトも、最終的には霊魂の不死という結論に至り、それが宗教の礎であるとした。

哲学は、この存在の端緒、すなわち「自分の右手で自分の右手を掴む」ための唯一の手がかりである死をいつのまにか宗教に預けてしまい、やがて実証科学の一部へと堕落してしまったという。

人工衛星

人工衛星こそ、天上からつねにこの地上を眺めていると思われてきたあの絶対者(神)の視線を手に入れたのです。
なぜ人類は、「死後にも世界は存続する」を選択してきたのか、その理由は道徳にあるという。
そうです、天国と地獄の話につながります。生前の行いが死後の世界での処遇を左右するという話です。
これは、われわれ共同体の「大混乱」を防ぐための手立てでした。


ここで、問題が。この道徳や科学が、人類の目的そのものである限り、それはやがて私たちの生命を死へと追いやる害悪とならざるを得ません。「死後にも世界は存続する」という仮説、この真理から全てが演繹されるとき、それは生への否定へと繋がり、その先にあるのは死以外のなにものでも無くなってしまうからです。

よって、われわれはこの真理を今一度「生きていることこそ存在の大前提である」に戻す必要があります。と。

握手

「すでに与えられた何ものか」を知ることはできませんでした。
しかし、人類はこの限界点を越えようと、宗教を考えだし、体験することのない死後の世界を考え出して見せたのです。
宗教は、共同体をより堅固なものとするために、彼岸世界の仮構により、人類の内面に道徳を植え付けるために有効だったのです。
現代において、言葉(意識)の絶対化、神聖化が、地球温暖化・環境汚染・種の絶滅・インターネットやAIによる人間の卑小化などのさまざまな弊害をもたらしています。
ゲーテは、聖書の「はじめに言葉ありき」の句に異を唱えました。「はじめに行いありき」ではないか、と。
この行いこそ、私たちの右手であり、始まりというより存在そのものです。
彼岸の神の末裔である科学はますますその猛威を振るい、この地球上の生命を衰退へと導いています。

死があるからこそ、私たちは「すでに与えられた何ものか」としての生を知るのです。
死がなければ、私たちは生きるという概念さえ持ちえなかったでしょう。
日本では、自然の草木、動物、岩、山、海などすべてが生あるもので、神と地続きでした。

日本人にとっては、来世よりも現世こそがパラダイスでした。
このような現世主義の日本では、自尊心によって道徳を身につけました。「恥の文化」です。
西洋は「罪の文化」なので来世での処遇を気にして現世を生きるという宗教が構築されたと言えます。


では、われわれは、なにを目指すべきか。
それは、死における二つの可能性を見据えつつ、そのあいだに立って調和を求めながら生きることでないか。と。
(自分の)現世と生の肯定を目指し、(愛する人の)死後の世界での存在を願望する、という感じでしょうか。

まとめ(感想)

哲学と宗教の関係が少し分かったでしょうか。
宗教は「死後にも世界は存続する」と主張し、哲学は「死後には世界は存続しない」「無である」と主張しているように読めました。

著者は、わたしたちは、「すでに与えられた何ものか」から始めるしかない、と述べていて、
これは、「生まれる前のことは分からないので、どうしようもない。」ということと理解しました。
たとえば、現代科学では、宇宙の始まりのビッグバンだといいますが、それ以前の宇宙はどうなっていたのか?
という問いには誰も答えられないのと同じです。

人類の知能の限界かも知れません。人間と違う構造の宇宙人なら知っている可能性はあります。
前提を突き詰めていくと、答えが出ないし、その前提が無いと現代科学も成立しない。
こうなると、なにが正しいかが決められないことになり、現代社会における“学校の試験の答え”も真の正解かどうかは分からないといえます。

これは、人間が認知できる前提で築かれた学問をベースとして、これを正解とすると決めているに過ぎないからだということになります。

哲学はあらゆる学問のベースだと思いますが、今回は哲学が「死」というものをどのように考えているかということを学べたことと、宗教の本質の一面を知ることができたと思っています。

現世を生きる自分としては「死後には世界は存在しない」との考えに立ち、現世と生を肯定しつつ、家族には、やすらかな死後の世界があると祈念して生きて行こうかと思います。

なお、この本ですが、ページ数が185で、1ページの文字数も多くないので、読み易いと思いました。

三好由紀彦さんのプロフィール

詩人、哲学者 1958年 東京生まれ
難波宏至氏に師事、1999年に紀元アカデミア設立
詩人としては、現代文明への批判精神に満ちたユニークな詩作を展開中。

主な著書

・哲学の扉をあけよう
・はじめの哲学
・深海魚は海を知らない
・哲学のメガネ
・詩集
 生歌、マクドナルドの休日、さよなら21世紀、生命種
など。

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