釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝 藤澤志穂子

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矢口作品はなぜ時代を超えて読み継がれているのか。

雪国で生まれ育った者のみが肌で感じる自然の摂理を、都会への警鐘として鳴らしている。
それが、デジタルの加速する令和の時代において新鮮に映る。
矢口氏には、蔑まれていた地方、マンガに対する「バカにすんな」という反骨精神があり、それが共感を呼ぶからではないだろうか。(著者あとがきから抜粋)
 
こどものころに読んだ「釣りキチ三平」について、藤沢志穂子さんが5年の歳月をかけて取材された内容には、私の知らなかったことばかりが書かれており、改めて矢口先生の偉大さに気づかされました。
目次:

第1章 80歳のツイッター

2020年にプロデビュー50年を迎え、東京五輪と相まって大きな節目となるはずだった。
2020年11月、矢口先生は天国へ逝かれてしまった。
2019年6月に開始されたツイッターを読んでみたかった。
「釣りキチ三平」は、1973年~1983年「週刊少年マガジン」で連載された。
私もちょうど中学生くらいで、単行本となった「釣りキチ三平」を友人から20巻ほどまとめて借りて読みふけったことを思い出す。
 
本書でも述べられているが、単なる遊びというよりは、マンガで書かれた解説書の内容も含まれており、大変勉強になったと記憶している。
高齢となった矢口さんは、マンガの原画が浮世絵のように、世界に散らばらないようにしたいと考え、地元のまんが美術館に原画約42.000点を寄贈した。
 
「バーサス魚紳さん」は、ぜひ読んでみたい。
次章にて、魚紳さんの生い立ちを聞くと、私もほろりとする歳になった。

第2章 断捨離と復活

78歳のときの運転免許返上が、矢口さんの陣背における「断捨離」のようなものだそう。
静かに暮らしていると「マタギ」の復刻で再注目!
行ってみたいのが、温泉旅館「打当温泉マタギの湯」と、そのレストラン「シカリ」では熊鍋を食べてみたい。
 
そして、2018年6月、「野生伝説」シリーズ『羆風/飴色角と三本指』と『爪王/北へ帰る』の2冊も復刻された。
続いて、2019年6月、『おらが村』は、高度成長期の陰にあった農村の「圧倒的なリアル感」がある。
 
人気は海外でも高い。とくにイタリアではアニメが放送されて、日本とも地形、釣り文化、家族関係の価値観などが日本と似ているからとの説もある。
 
2009年の実写版「釣りキチ三平」は、ぜひ見たい。

 

第3章「三平」の原風景

矢口さんの故郷は、秋田県横手市増田町狙半内(さるはんない)字中村は、秋田県南部の豪雪地帯とのこと。
奥羽本線JR横手駅から車で40分、雄物川の支流の支流の狙半内川沿いの集落である。
実家はすでにないという。
 
矢口さんは帰郷するときは、温泉宿「上畑温泉さわらび」に泊まるとのこと。
狙半内の廃校の小学校を活用して宿泊体験交流施設『釣りキチ三平の里』体験学習館を横手市が運営している。
 
自伝的作品の昭和三部作が、「オーイ!‼やまびこ」「蛍雪時代」「昭和銀行田園支店 9で割れ‼」である。
 
矢口は小学生のころから、遊びではなく食卓のおかずを取るために、母と夜にカンテラを持って狙半内川でカジカを刺しに行った。
近所のおじいちゃんに、夏場にウグイ、イワナ、ヤマメの釣りを教わった。
 
そして本好きの母のおかげで、手塚治虫の「流線型事件」に出会い衝撃を受ける。
このような長編は、マンガの定義を超えるものだったのである。
 
そして、矢口は子供たちの自殺やいじめ、不慮の事故などに義侠心を感じ、地方での暮らしから真実を訴えかける手法も使った。
 
成績優秀だった矢口は、村で初の高校生となり、卒業後は羽後銀行に。またしても村で初の銀行員だった。仕事を覚えるためマンガを封印していた矢口は転勤した十文字支店で実家が書店の女子行員が持ってきた「月刊漫画ガロ」に連載されていた白土三平の「カムイ伝」に大きな衝撃を受けるのである。
 
その後、「月刊漫画ガロ」にいくつかの作品が掲載され、矢口は30歳で転職を決意するが、両親に反対される。妻と祖母の後押しで船出するが。。。
 
なかなか、すぐにはうまく行かない。ついに「週刊少年サンデー」に「鮎」の掲載が決まる。そして梶原一騎原作の「おとこ道」の作画担当となるにあたり、ついにペンネーム「矢口高雄」を決めてもらう。(大田区の矢口に住んでいるからとは…)
 
しかし、「おとこ道」の打ち切り、そのあとの小池一夫の「燃えよ番外兵」の打ち切りと二連敗を喫する。
 
ついに、作画のみから自作へと舵をきった。自分の問題意識を漫画で描いて、青年マンガ誌「ビックコミック」に持ち込む。ここで、「釣り」と「マタギ」にテーマが絞られた。
 
1973年「週刊少年マガジン」から『釣りキチ三平』の連載が始まった。
 

第4章 地方の時代

1973年当時は、「あしたのジョー」「愛と誠」がヒットしており、少年マガジンの読者層は、ターゲットの小中学生より上になっており、読者層の年齢を下げるべく、釣りキチ三平は登場する。
 
1974年には、講談社出版文化賞を受賞し、あこがれの手塚治虫と握手ができた。
そして、月刊誌にも連載が決まる。
おかげで奥さんから封印されていた釣りの許可も出たのである。
 
釣りは単なる遊びではない。自然の豊かさを守ることにもつながる。釣りに行ったら行った時より良いコンディションにしてくる。釣り人は「自然の番人」。
私もこれを見習うようにしたい。
 
釣りキチ三平によって釣りブームとなり、都会では光化学スモッグなどが発生したりして、人びとの心は自然回帰へと向かう。
1970年代後半は「地方の時代」といわれ、都会の経済成長や開発が地方にも普及し、その反動がさらに自然回帰の機運を押し上げた。
 

第5章 「エッセイ漫画」の境地~秋田の足跡

矢口は「エッセイスト」としての顔も持つ。
フランス文学の出版社である「白水社」から「ボクの学校は山と川」を出版。
これが評判となり、1988年には、毎日新聞社主催の「青少年読書感想文コンクール」の高校の部の課題図書となった。そしてついに、中学1年生の国語の教科書に掲載されたのである。
 
だが、まだ漫画の力は見くびられていたようなことがある。田沢湖畔に開館した「田沢湖クニマス未来館」は、仙北市が運営するが、学術的な研究業績を優先するとかの理由で、「平成版 釣りキチ三平」を所蔵しているにもかかわらず、矢口やさかなクンへのPR要請はしない方針だという。
 
ではあるが、矢口先生が目に見える形で故郷に錦を飾ったのが、秋田空港のレリーフである。
公共の場所に展示する「パブリックアート」は、日本では日本画家の作品が先行していて、悪いとは思わないが、マンガでもいいじゃないか。
 
仙台空港の大友克洋、米子鬼太郎空港の水木しげるに続く3例目となった。

第6章 漫画家たちとの邂逅

矢口や里中満智子が賞を受賞した1970年代、マンガは悪書とされ、「読むとバカになる」と言われ、わたしもほんとうにそうなんだと信じ込んでいたものです。
マンガの貴重な資料である原画だが、いまはパソコンで作画する若手作家が増えたという。

第7章 「名伯楽たち」との縁

矢口を支えた名伯楽?
伯楽とは、「人物を見抜き、その能力を引き出して育てるのが上手な人」のことです。
矢口を最初に見出し、飛躍のチャンスを与えたのは双葉社の編集者・清水文人である。
日本初の週刊青年マンガ誌「週刊漫画アクション」に売り込み、掲載が決まった。
 
清水の心に響くことば
「人間の本質を表現するのが文学なら、マンガも文学になるだろ? (中略) 文学をマンガで大衆化するんだよ」
 
矢口の担当編集者・吉留博之
マンガで文学をやる、がミッションで、各界のサブタイトルを捻りだしている。
「手籠の蛍火(てかごのあかり)」、「釣り十戒」など。
そして彼が、「釣りキチ三平」の「週刊少年マガジン」(講談社)進出を後押ししてくれたのである。この恩返しで描いた「マタギ」が、1976年の日本漫画家協会賞の大賞を受賞した。
 
このほかも、数々の人たちが矢口を支え、増田まんが美術館がリニューアルオープンした。

第8章 描きたかった郷愁~作品の魅力

矢口は一貫して地方を舞台とし、自然と人との触れ合いを描いている。
 
「O池のQ太郎」では、釣り上げる寸前に大地震が発生し、Q太郎は湖底の地割れに呑み込まれた。「この大自然を人間が力でぶちこわすようなことがあれば、そんときゃあ同時にわしらのさいごでもあるちゅうことをおぼえておいたほうがええ」と一平が語る。
 
一方で、矢口は「雪を子供の頃から恨み呪ったことが、故郷を出てマンガ家を目指す原動力になった」という。
 
いまの、IT(情報技術)やAI(人工知能)などのデジタル社会に対し、「なんかをつくりだすことができるほうがいい」と語らせている。
 
高度経済成長期の地方の実態 『おらが村』
矢口は最も好きな作品に「つばくろ」を挙げる。越中富山の薬売りが集落にやってきて、定宿のばあさん宅に来るが、ばあさんは亡くなってしまうが、タンスには薬売りのために買っておいた新調の下駄があった。つい涙が出てしまう作品である。
 

第9章 横手市増田まんが美術館

ローカル線しか停車しない奥羽本線のJR十文字駅から車で15分ほど、周囲には田んぼが広がるのどかな場所に美術館はある。
リニューアル以降の初年度の入館者数は14万人を超えた。
マンガを多角的に楽しめると同時に芸術としてとらえ、研究対象として分析、利活用しているすばらしい施設である。
 
秋田県出身のマンガ家の高橋よしひろ、きくち正太、倉田よしみらの映像があったり、海外のマンガ家の資料もあるという。
 
マンガ関連施設は国内に100以上あるという。マンガ家個人の名前を冠した施設が多い中、矢口はそうしなかった。
「僕が死んだら誰も来てくれなくなる。将来、『国立マンガアーカイブ』のようなものができるならば、横手市増田まんが美術館がその分間になりたい。」この理由がすばらしいと思う。だからこそ、この美術館には、2020年文化庁の委託を受けて、国内唯一の原画保存施設として「マンガ原画アーカイブセンター」が設置されたのだろう。分館というより本館であろう。
 
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