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この記事の目次

考えるとはどういうことか 梶谷真司 子どもと哲学対話しよう!

考えるとはどういうことか 梶谷真司
0歳から100歳までの哲学入門

この本を読んで、自分が思い出すためにエッセンスをまとめておきます。
第4章に記載されていた具体的な対話の段取りについては割愛しています。
目次:

第1章 哲学対話の哲学

哲学対話の8つのルール (哲学対話はディベートではない。)

①何を言ってもいい。

②人の言うことに対して否定的な態度を取らない。
これは①を生かすためのルールである。なぜなら、何を言ってもいいとしたところで、自由にものを言えなくしている力が働くからである。否定的な態度こそがその力である。なかなか難しいが、否定するのではなく、ただ違う意見を言えばよい。

③発言せず、ただ聞いているだけでもいい。(これも自由の一つ)
対話の最後に、ただ聞いていただけの人に感想を聞くと、かえって哲学的な深みを持ったことを言うことがある。対話を聞きながら考えているのである。
4~5人だと同調圧力が働きやすいが、哲学対話は10~15人で行うので、誰か一人が議論をリードしたりすることはない。

④お互いに問いかけるようにする。
何を言ってもいいという中で、何を問うてもいいということが大切。
問こそが対話を哲学的にする。しかし、人に問いかけるのは極めて難しい。その答えの一つであるが、日常生活で誰かが質問するときは、怒っているときが多いからである。「何してんの?」「どうして?」「何でこんなことも~?」
学校では、問わない方が先生も生徒もいいとされる。理解したら質問がないはずという暗黙の了解があるからだ。
お互いに忖度して質問しない。“問うことを学ばないところでは、考えることも学べるはずがない。”
質問に対して、「大丈夫です。」というのは、いかがなものか。これは「考えません。」と言っているのと同じである。
互いに恐れず、問題をしっかり受け止め、いっしょに考えることが大切である。又、問うた以上は、いっしょに考える覚悟が必要である。

⑤知識ではなく、自分の経験にそくして話す。
④のためには、武器として知識を使わず、対等に話せなければならない。
学歴などではなくて、自分の言葉で、自分の経験で話せばいい。
対話は誰かが一方的に誰かに教える場でもなければ、共有できない個人的な考えを言い合う場でもない。(これも難しいと思うが)
子供は未熟だと思うかもしれないが、その子にしか分からないこと、たとえば育った環境で味わった思いなどは、その子にしかわからないことであり、経験に優劣はないと言えよう。

⑥話がまとまらなくてもいい。
それっぽい結論で思考を止めてはいけない。話をまとめようとすると、お互いに言いたいことを言わないようになるからである
ワークショップのように、目標や落としどころが決まっていたり、課題解決を目指すような話し合いと哲学対話とが大きく違う点でもある。

⑦意見が変わってもいい。
普通は、前とは違ったことを言ったりできず、自由にものが考えられない。哲学対話では、みんなで考えているのだから、考えて深めたり、広げたりするのであれば、個々人の意見は変わってもいい。
思考が深まった、違う角度から考えたということだから、むしろ望ましい。

⑧分からなくなってもいい。
これは、もっとも哲学的なルールである。
私たちは、普段は「分かること」「知っていること」に価値を置く。そうすると、分からないことは問わず、分かることしか考えないか、分かったふりをする。
しかし、対話では分からなくなることは、むしろ素晴らしいことで、問いが増えること、考えることが増えることは、より哲学的になれるのである。

対話とは、結論や答えを出して終わるのではなく、行先も通る道も決まらないまま、他者へと、そして世界へと自らを開いてゆくものである。

第2章 哲学の存在意義

それは、論理的な思考が身につくといった組織や社会にとっての有用な人材になれるということではなく、「考えることで自由になれる。」ことこそが哲学の意義である。

日常生活で背負っている役割を脇に置いて私という個でいられる場ができ、自由を体感できるのである。対話が哲学的になると、体が軽くなった感じ、宙に浮いた感じがするのである。そのときおそらく、自分が思い込んでいた前提条件が分かって、それが揺らぐか、取っ払われたのである。

私たちは、自ら考えて決めたときにだけ、自分のしたことに責任を取ることができる。
たとえば、生徒がどんなに教師を非難しようが、教師がどれほど謝罪しようが、成績や入試の結果は生徒自身が引き受けるしかない。でも生徒は文科省が決めたカリキュラムを無条件に教えられているだけで、自分で責任は取れない。
また、教師はどれほど望んでも、どんな人格者でも、生徒が引き受けることになる結果に対して責任は取れない。なぜなら、それは生徒の人生であって、教師の人生ではないからだ。生徒も教師も、取れない責任を取らされたり、取ろうとしたりしているのである。

つまり、誰のためでもなく、自分のために考えるのだ、どんなにつたなくても、自分でつまずいて自分で考えたことしか、その人のものにはならない。

第3章 問う・考える・語る・聞く

きほんてきな問い方
とりあえず問う。(5W1Hがついた問いを作る。)理由や根拠や目的を考える。具体的に考える。まるでなぜなぜ分析のようだ。
反対の事例を考える。関係を問う。違いを問う。要約する。懐疑(ほんとうにそうだろうか)する。

反自分の立ち位置を相対化する問い方
時間軸で問う。(過去、現在、未来) 空間軸で問う。(自分、他社、社会)

小さい問いから大きな問いへ(具体的な問いを抽象的な問いに)

たとえば、「この子は何で泣いてるの、どうしたらいいの」を、自分にとって問いの意味を問うと、少し違う次元が開ける。「なぜ私は『この子は何で泣いてるの、どうしたらいいの』と問うているのか?」これをさらに言い換えて「なぜ私は子供が泣くのを気にしているのか?」と問うてみるとよい。うるさい? 近所迷惑? どうして迷惑をかけたくないの? いい母親と思われたい? なんでいい母親と思われたい?
こうしてより大きい問いへ移ることで、哲学的な次元が開けてくる。

大きな問いを小さくする。(抽象的な問いを具体的な問いに)

たとえば、「生きる意味は何か?」も同じように「なぜ私は生きる意味を問うのか?」と問うのである。これにより、問題が自分にとって身近で具体的な文脈になる。
たとえば「試験に落ちたから?」「就職活動がうまくいかないから?」「恋人にフラれたから?」 では、そうでなかったら「生きる意味は何か?」とは問わなかったのか。そもそもどういうときに「生きる意味は何か?」と問うのだろう?こうした問いを積み重ねて問題に近づき、自分なりに向き合い、自分に可能な仕方で考える自由を手に入れるのである。

ただ、一人で問うのは退屈だ。だから、他の人と対話をする。自分だけでは思いつかないような問いを他の人が思いつく。他の人が問えば、自分も問う勇気が出る。そこに対話の意味がある。

「受け入れる(自分に都合よく解釈する)」ではなく、「受け止める(理解もせず、受け入れもしない)」が、聞くことの本質である。

第4章 哲学対話の実践

大まかな方針と趣旨(目的)

対話の用途
・とくに結論を出さずに、いろんな意見や情報を共有したい時
・とりあえず問題やテーマに関心を持ってほしい時
・相互理解を深め、人間関係の土台を作りたい時
・いろんな人(年齢、性別、職業、立場等が違う人たち)と話す時
・結論を出す必要が無い時

子どもを対話に入れるとよい。子どもは大人の常識が通用せず、大人が当たり前だと思っていることに疑問を投げかけてくる。だから子どもがいると、自分たちが無意識に前提としていることを問わなければいけなくなる。また分かり易い言葉で伝えるために、自分が普段使っている語彙の大半が使えなくなり、言葉遣いに意識的になるため、哲学的になる。

対話は、参加者、場所、時間などによってうまく行くときも行かないときもある。誰のせいでもなく、みんなのせいである。だから対話をするたびに、いちいち反省するのは意味がない。参加者がどう受け取ったかは、最終的には本人の問題である。大事なのは、繰り返し何度もやることだ。やり方を変え、場所やネタを変える。だめなら経験者に相談するといい。無理のない範囲で継続することがいいのである。

あなたは、自由に対話できるだろうか。わたしは、なんとなく、やれそうな気がしないでもないが。。。

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この記事を書いた人

ソフトウェア会社サラリーマン。書店や図書館で見つけた本の読書録を残したいと考えブログに書いています。ミステリー、時代小説、資格維持のための教養本などジャンルを問わずに読んでいます。読書録に加えてちょっとしたアイデアなども書けたらと思います。

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